牧野信一 魚籃坂にて
魚籃坂にて 牧野信一 魚籃坂に住んで二度目の夏を迎へるわけだが、割合にこのあたりは住み心地が佳いのだらうか、何時何処に移つても直ぐその翌日あたりから、さてこの次は何処に住まうかといふやうなことを考へはじめるのが癖なのに、そしてひとりでそつと上眼をつかひながら、放浪といふ言葉などを想ひ描いて切なく寂し気な夢を追ふのが癖なのに、珍らしくもあまり引越しのことなどは考へずに——また夏となつた。寺町で樹木が多いので到底市中とは思はれぬやうな昆虫類が棲息して去年は美しい鱗翅、脈翅、有吻、鞘翅、膜翅の類ひを居ながらにして八十種あまり採集した。甲虫や玉虫やサイカチなどの類ひが、こんなところでこんなに採れるの...
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