山本周五郎 城中の霜
城中の霜 山本周五郎 一  安政六年十月七日の朝、掃部頭(かもんのかみ)井伊直弼(なおすけ)は例になく早く登城をして、八時には既に御用部屋へ出ていた。今年になって初めての寒い朝であった。大老の席は老中部屋の上座にあり太鼓張りの障子で囲ってあるし、御間焙(あぶ)りという大きな火鉢のほかに、側近く火桶(ひおけ)を引寄せてあるが、冴(さ)えかえった朝の寒気は部屋全体にしみ徹って、手指、足の爪先など痛いように凍えを感じた。  然し冴えかえっているのは寒気だけではなかった。常には賑(にぎ)やかな若年寄の部屋もひっそりとしているし、脇坂安宅、太田資始(すけもと)、間部詮勝(まなべあきかつ)以下の居並んでい...
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